みらいFOUOCS

(前回のお話し)青年海外協力隊の一員として、ガーナのアチュア村に派遣された竹井先生(タケー)は、自分がやろうとしていることと、村人の希望との間に大きな溝があることがわかった。最初は途方に暮れたタケーだったが、村人の日常に親しんでいくうちに、だんだんと彼らの生活が見えてきたのでした。

絵本を送って下さい

子どもたちはいつも元気だった。学校に行く時以外は常に裸足で遊びまわっていた。そのため小さな傷を化膿させて痛そうにしている子も目立った。私自身、小さなクツズレが化膿して治るまで三ヶ月はかかった。私は村の若者の一人と『ファースト・エイド・ステーション(救急所)』をつくった。幸いなことに、協力隊員には使いきれないほどの救急薬品が支給されている。大げさなことはできないが、簡単な消毒ができるだけでも、ないよりはいい。
そして、村人のために一部を除いてこれを使うようにした。わずかずつでも手数料を貯えれば薬の追加購入にもつながる。これなら村人にも維持できるはずである。

時には村の学校にでかけ、日本のこと、世界のことを話した。現地語であるファンティ語の授業にも出席した。教師になったり、生徒になったりである。

ガーナに来て半年ほど過ぎた頃、協力隊から機材として絵の具セットが届いた。すぐに子どもたちに絵を描かせてみた。絵を描かせることで子どもたちの夢や知識の範囲を知りたかったのである。絵の上手下手は別として、私は彼らが何を描くか興味があった。ガーナの国旗、ココヤシの木、ニワトリ、ナマズなどが学校に行っている子もいってない子も好んで描く画題だった。
日本の同じような子どもたちがどんなものを描くか私には分からないが、アチュワ村の子どもたちの知っている世界は、これから見るとまだまだ狭いと思った。そこで私は村に子ども図書館をつくる計画をたてた。

「いらなくなった絵本をガーナの子供たちに送って下さい。」
という呼びかけに、東京・千葉・神奈川・埼玉・徳島・福岡など各地の賛同者から、いらなくなった本を、一冊から、時には何十冊もまとめて、送ってもらえた。その結果、二百冊を越す絵本や子ども用図鑑が集まった。
私は村の子どもたちに、これらの本は日本の子どもたちからの贈り物だと話して図書館開きをした。子どもたちは目を輝かせてページをめくった。
そこに並べられたのはカラーの美しい絵本だ。
最初、子どもより大人の方が夢中になった。
3、4歳児向けの幼児絵本「どうぶつのおやこ」や「のりもの」などに歓声を上げるのは、決まって70、80歳にもなろうかという長老たちだった。
彼らは、子どもたちと一緒になって日本から送られてきた絵本を夢中で手に取っては楽しそうに眺めていた。

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子どもたちは日本から送られてきた絵本に大喜び!

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夢中で絵本図書館に集まる村人たち。

それから村人たちは日曜日や雨で仕事のない日などは図書館にこぞって集まるようになっていった。そんな日は「図書館の日」と呼ばれるようになり、みんなの楽しみの一つになっていった。
日本から最も遠い西アフリカのガーナのサバンナにアチュワ村がある。
今でも、そのアチュワ村に日本の子どもたちから贈られた絵本の図書館がある…。

さて、何をしたらいいのか悩んだ村落開発も、時がたつにつれて小さなことでも手を付けてみると次々とアイディアが広がった。
例えば、電気のない暑い村では生魚はそのままでは保存できない。干物にすればいいようなものだが、生のまま冷蔵庫に入れるように保存したい。私はココヤシの枝を編んで ラグーンに浮べた。簡素な生簀だが、これだけでも必要十分な機能を備えていた。村の生活の中でいつまでも利用されていくかどうかは村人の判断であり、いろいろな試みの中でそれが役立つなら村に残るだろう。まずやってみることである、と私は思った。ラグーンの水場に丸太で段々をつけてみた。村にいくらでもある丸太はテーブルやイスにもなった。

村人たちの理解は深まったものの、まだまだ村落大開発の期待をすててはいないようだった。私にとってこれは負担になった。しかしいっしょに生活するようになって理解してくれる人も多くなったのは事実で、そのうち私は、一番大事なことは村人の中で村人といっしょに生活すること自体であると思いはじめた。
村人が日本と日本人を大好きになってくれればいい、そして私自身がアチュワ村を大好きになることができれば、それで私のガーナに来た目的は、ほぼ達せられると思った。そう思うと気が楽になった。それにつれて村の大人たちとも子どもたちとも気楽に付き合えるようになってきた。長老たちも私が村に来た時のよう なおおげさな村落大開発だけを言うことはなくなってきた。

ミスター・タケー、アチュワ村の酋長(サホヘン)の位を受けてくれ

私はまったく本気にしなかった。と言うより本気にはできなかった。ガーナの社会では今も酋長制度が残っているのも事実だが、それはそれぞれの部族内のことである。外国人を酋長にするなど聞いたことがなかった。長老たちが真剣にまじめな顔で言っていても、私にはどうしても本気だと思えなかった。
酋長(サホヘン)は世襲の大酋長(オヘン)と違って、具体的に仕事を持たねばならない。酋長は、有事には武器をとって戦う男たちの集団アサホをひきいて 村人すべての安全と繁栄をはかる。アチュワ村の大酋長は女性で、普段は首都アクラに住み、祭りや儀式の時だけしか村にこない。村の象徴的存在である。こう して見ると酋長は実質的に村の最高責任者ということになる。

長老たちの言葉が本気であると分かってからも、私は酋長に就任しようとは思わなかった。
「私はよそ者。今ではアチュワ村が好きになり、村人と暮らす毎日が楽しいと思 えるようになったのも否定しないが、やっぱり私はよそ者だから。」 と繰り返して辞退した。
そんなやりとりがあってから、そのまま半年くらいが過ぎた。長老たちがやってきてまた同じことを言った。

「酋長になってくれ」
私はもうこの話はすんだものと思っていたので驚いた。私は言った。
「私はよそ者だから酋長にはなれない」
すると長老の一人が私に腕をだしてみろという。少しは日焼けしていたが、腕をだすと長老も同じように腕を伸ばし、私の腕に並べて言った。
「ほら、あんまり肌の色に違いはない」

「そうはいっても私は日本に帰らなければならないのだ」 私の言葉をさえぎって長老はつづけた。
「酋長はどこに居ても酋長。あなたが日本に帰ってしまっても私たちの酋長であることに変わりはない」
私は昔読んだことのある少年冒険物語の世界にいるような気がした。

ひきうけざるを得ないと思った。八月から九月にかけて、ガーナで働く青年海外協力隊の理数科教師隊員を対象 に、その長い休みを利用してワークキャンプがアチュワ村で行われた。私はその 下準備や協力のお願いなどで今まで以上に村の長老たちと接触を持つことになった。日本人が十人余りも一度に村で暮らすというので、宿舎や作業道具の貸与のほか、細かい頼みごとを毎日のように持っていった。
その結果、村人たちの協力も得られ、ワークキャンプは大成功に終わろうとしていた。長老の一人がやってきた。 「ミスター・タケー、酋長に決めた。しばらくしたら就任式をする」

「私を酋長にすることがほんとうに村のためになるのなら」
私は応えた。応えたものの実感はまるでわいてこなかった。

就任式は、ワークキャンプに参加していた協力隊員たちの目の前で、その日の夕方本当に行われた。
カネやタイコのリズムが流れてくると、長老と村の男たちがやってきて、突然プロ野球の優勝チームの監督が胴上げされるように私は男たちにかつぎ上げられた。私をかつぎ上げた男たちはそのまま村の中心部へ向かって移動をはじめた。カネやタイコのグループも演奏しながらこれに従った。まもなく男たちの肩の上で私は上半身を起こされ、手に酋長の権力を表す指揮棒を渡 された。村人が次々にでてきて私たちの周りで踊った。私も指揮棒を振って身体でリズムをとった。村人たちがそれを見てワッとわいた。

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村の中心にある聖地について私は降ろされた。ガーナの社会では、聖なる水アパテシ酒が儀式のたびに重要な役目を果たす。長老の一人が先祖たちの住む世界と考えられている大地にアパテシ酒を注ぐ。そして先祖に話しかける。

「日本から来たミスター・タケーを酋長にした」

こうして1982年9月25日、日本から来た青年ミスター・タケーこと竹井清のアチュア村の酋長就任式が挙行された。酋長の任期は終身で、酋長である竹井先生は、現在は日本に旅行中であることになっているというー。
(※本文は当時の文章を引用していますが、「酋長」は現在「部族長」と表現されています。)

写真提供:竹井先生